(お棄てになったお嬢さまの名は、なんとおっしゃいますの?)
夫人が、なんと答えるであろうか。もしも(その名は、房枝といいますのよ)といわれたら、房枝はどうしようかと、胸がわくわくした。多分彼女は、喜びにたえきれなくて、その場に卒倒するかもしれないと思った。
「娘の名でございますか。それは」
と、夫人は口ごもりながら、房枝の顔を穴のあくほど見つめた。
「あのう、娘の名は、小雪と申しますの」
「小雪? 小雪ですか。それにまちがいありませんの」
房枝は失望のあまり、わっと泣きだしたいのを一生けんめい唇をかみしめてこらえていた。
「ええ、小雪ですの。人様の手に渡っても、一旦私たちがつけてやった名前は、ぜひ名のらせたいと思い、メリンスの袷の裏に、娘の名を赤い糸で縫いとっておきました。房枝さん、もしや、あなたの本名は小雪とおっしゃるのではありませんの」
夫人の声は、ふるえる。
「いいえ、とんでもない、あたくしの名は、小さいときからただ一つ、房枝なんですわ」
「まあ、でも」
「あたくしは、生れてからずっと曲馬団の娘なんですわ。どうして、奥様のようないい方を、母親にもてるものですか。ごめんあそばせ」
房枝は、その場にいたたまらなくなって、スミ枝たちにはかまわず、一散に外へ走りだしたのであった。