本篇引用の書にいたりては、謹みて中外古今碩學がたまものを拜す、實に皆その辛勤の餘澤なり、家に藏せる父祖が遺著遺書のめぐみ、また少からず。編輯中の質疑にいたりては、黒川眞頼、横山由清、小中村清矩、榊原芳野、佐藤誠實、等諸君の教、謝しおもふところなり。然して、稿本成りて、名を言海とつけられしは、佐藤誠實君の考選にいでたり。稿本の淨書をはじめつるは、明治十五年九月にて、局中にて、中田邦行、大久保初男の二氏を、この編輯業につけられ、※字寫字は、おほかたこの二氏の手に成れり。さて、初稿成れりし後も、常に訂正に從事して、その再訂の功を終へたるは、實に明治十九年三月二十三日なりき。
さて、局長西村君は、前年轉任せられ、おのれも、十九年十一月に、第一高等中學校教諭、古事類苑編纂委員などに移りて、本書出版の消息なども、聞く所あらず。ひとゝせ故文部大臣森有禮君の第に饗宴ありし時、おのれも招かれて、宴過ぎて後に、辻新次君と鼎坐して話しあへるをりにも、「君が多年苦心せる辭書、出版せばや、」など、大臣、親しく言ひいでられつる事もありしが、編輯の拙き、出版にたへずとにや、或は資金の出所なしとにや、その事も止みぬ。かくて、稿本は、文部省中にて、久しく物集高見君が許に管せらるときゝしが、いかにかなるらむ。はて/\は、いたづらに紙魚のすみかともなりなむなど、思ひいでぬ日とてもあらざりしに、明治二十一年十月にいたりて、時の編輯局長伊澤修二君、命を傳へられて、自費をもて刊行せむには、本書稿本全部下賜せらるべしとなり、まことに望外の命をうけたまはりて、恩典、枯骨に肉するおもひあり、すなはち、私財をかきあつめて資本をそなへ、富田鐵之助君、及び同郷なる木村信卿君、大野清敬君の賛成もありて、いよ/\心を強うし、踊躍して恩命を拜しぬ。かくて、編緝局の命にて、かならず全部の刊行をはたすべし、刊行の工事は同局の工塲に托すべし、篇首に、本書は、おのれ文部省奉職中編纂のものたることを明記すべし、そこばくの獻本すべし、などいふ約束を受けて、十月二十六日、稿本を下賜せられ、やがて、同じ工塲にて、私版として刊行することとはなりぬ。