野村が止めるのも聞かず、俊助は鳥打帽にインバネスをひっかけて、彼と一しょに森川町の下宿を出た。幸とうに風が落ちて、往来には春寒い日の暮が、うす明くアスファルトの上を流れていた。
二人は電車で中央停車場へ行った。野村の下げていた鞄を赤帽に渡して、もう電燈のともっている二等待合室へ行って見ると、壁の上の時計の針が、まだ発車の時刻には大分遠い所を指していた。俊助は立ったまま、ちょいと顎をその針の方へしゃくって見せた。 「どうだ、晩飯を食って行っては。」 「そうさな。それも悪くはない。」 野村は制服の隠しから時計を出して、壁の上のと見比べていたが、 「じゃ君は向うで待っていてくれ給え。僕は先へ切符を買って来るから。」 俊助は独りで待合室の側の食堂へ行った。食堂はほとんど満員だった。それでも彼が入口に立って、逡巡の視線を漂わせていると、気の利いた給仕が一人、すぐに手近の卓子に空席があるのを教えてくれた。が、その卓子には、すでに実業家らしい夫婦づれが、向い合ってフオクを動かしていた。彼は西洋風に遠慮したいと思ったが、ほかに腰を下す所がないので、やむを得ずそこへ連らせて貰う事にした。もっとも相手の夫婦づれは、格別迷惑らしい容子もなく、一輪挿しの桜を隔てながら、大阪弁で頻に饒舌っていた。