多くの青年

そしてその解決を倫理学に求めて失望する。しかし倫理学で善悪の原理の説明できないことは、善悪の意識そのものの虚妄であることの証明にはならない。説明できないから存在しないとはいえない。

およそいかなる意識といえども完全には説明できるものではない。そして深奥な意識ほどますます概念への翻訳を超越する。倫理学の役目は、私たちの道徳的意識を概念の様式で整理して、理性の目に見ゆるように(Veranschaulichen)することにあって、その分析の材料となるものは私たちのすでに持っている善悪の感じである。善とは何かということは今の私にも少ししかわかっていない。私は倫理学のごとき方法でこの問いに答え得るとは信じない。善悪の相は私たちの心に内在するおぼろ気なる善悪の感じをたよりに、さまざまの運命に試みられつつ、人生の体験のなかに自己を深めてゆく道すがら、少しずつ理解せられるのである。歩みながら知ってゆくのである。親鸞が「善悪の二字総じてもて存知せざるなり」と言ったように、その完全なる相は聖人の晩年においてすら体得できがたきほどのものである。すべてのものの本体は知識ではわからない。

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